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三枚目の枯れ葉を目指して

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2019/12/21


初めて自転車に乗れた瞬間を覚えてるだろうか?


僕の娘が補助輪を外したいと言ったのは小学生になってからだった。周りの子は、特に運動神経が良い子たちは、とっくに補助輪なしで乗れているから、彼女は危機感を持っていた。格好悪いから。それが本音だったと思う。「乗れるようになりたい」と呟いた一言の陰に、娘の思いを僕は嗅ぎ取った。


僕は男だったし(いや、今でも男だけど)、昭和時代に子供時代を過ごしたから、父親は乗り方を教えてくれたけれど根性論だった。自転車の荷台を押さえ、勢いつけて僕を放り出した。もちろん僕はすぐによろけ、転んだ。膝をしこたま打ち付け、ざっくりと砂利の跡を刻んだ。その刻印が無残であればあるほど、上達に近いと父は信じていたと思う。酷い父だ。……子供の頃はそう思った。


でも今になって思うのだけど、父は残虐でも何でもなく、そうすることでしか乗り方を教えられなかったのだと、今になっては思う。それしか指導方針を知らなかったのだ。当時の僕はそれを辛いとしか思わなかったけれど、父の年齢を超えた今となっては、ああすることでしか息子に伝えられなかったのだろうと理解できる。父も父なりに頑張っていたのだろう、と。


僕は自分の娘に同じ思いをさせたくないと思った。それはもちろん、娘に痛い思いをさせたくないという親バカな思いだ。けれども、課題があれば対策はある、というのが僕の信条。何かうまいやり方はないものだろうか。いつでもそう考える。だから効率さを求め、考え、調べた。現代にはGoogleがある。


「自転車 乗り方 教え方」


いろいろ読んだ中でもっとも効率が高そうに見えたのは「ペダルを取り外す」というものだった。ペダルがないから、自分の足で地面を蹴って進めなくてはならない。そのときにバランスを取ることを体が覚える。自転車とは、ある程度スピードを出さないと安定しないから、自分の足でどれくらい強くければ自転車を前に進められるかを体感できる。理に適っている。僕は工具を取り出し、ペダルを外した。


ペダルを外す僕を見てちょっと驚いたようだったけれど、娘は不平も言わずにサドルに跨った。そうやって何度か練習を繰り返したある日曜日、娘は宣言した。「今日こそ、乗れるようになりたい」と。


ある秋の日だった。僕は足元に落ちている枯れ葉を拾い、2メートルおきに配置して娘に言った。


「まずは一枚目の場所まで自分で自転車を蹴って進めてごらん」


娘は難なくクリアした。


「おお! できるじゃん。今まで練習したからだ。じゃあ、次は二枚目の葉っぱまでやってみよう」


それも娘はクリアした。ちょっと嬉しそうな顔だった。自信を持ったのだろう。


「やった! できたじゃん! じゃあ最後の葉っぱまでやってみよう!」


最後の枯れ葉は車1台分くらい先にある。娘には果てしなく遠い場所に見えたはずだ。何度か足蹴りをし、自転車を安定させないと辿り着けない境地。勇気と不安が入り混じった顔で挑戦するものの、あと一歩足りない。手前でよろけ、足を止めてしまうのだ。それまで難なくこなしていたけれど、そこから先がうまくやれない。


でも娘は諦めなかった。「超えてみたい」という気持ちを持っていた。今まで超えてきたのだから、きっとあの葉っぱも越えられる。そう思っていたように見える。少なくとも僕はそういう気持ちだった。いや、乗らせてあげたい、成功させたいという思いより、挑戦することそのものに意義を感じていた。何度かやるうちに、あと1メートルまで迫り、その次はバランスを崩して3メートル届かなかった。それでも諦めず、自転車を戻し、また挑戦した。夕陽がどんどん傾き、僕らの場所は建物の影が覆い尽くしていった。


それでもやはり、数えきれないトライの後で、娘は三枚目の枯れ葉を越えていった。一組の枯れ葉でつくった見えないゴールラインを越えたとき、娘は僕を振り返り「パパ! できたよ!」と嬉しそうに叫んだ。僕は娘に駆け寄り、娘もハイタッチで応えた。





よくある親子の光景だ。とりたてて文章にすることではない。でもこれは、受験と同じだと僕は思う。あなたの親や教師、講師は、基本的に僕とまったく同じ思いを共有する。あるいは経験している。一方、子供の方も同じだ。「やってみよう!」と思えた人は、その達成感や充実感を、体や心の震えとして知る。誰かの助けを借りても、達成するのはやっぱり自分だから。


あなたがやり遂げた暁には、親や周りの人は感動する。子供に見られないような角度で涙を流して喜ぶ。ひっそりと。でも、子供はそんなことを知らない。代わりに、体の細胞が湧き立つような感動や昂揚感を知る。大人は「それで十分」と満足する。子供にそうなってほしいから、充実感や達成感を味わってほしいから、大人は子供を応援する。そこには理由も何もない。あるのは暖かな眼差しなのだ。


娘は今でもたまに思い出したように言う。僕はその一言を聴く瞬間が大好きだ。


「あの日、枯れ葉で自転車の練習をしたよね」

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