家勉応援個人家庭教師のブログ

漢字のひとり言【解答例を書いてみた】

2019/12/2

タイトルは設問文そのまま(僕の考えた文言ではない)。相模女子大の問題だ。いつものように、お湯先生がご提示する設問に対する解答例、第4弾。


お湯 on Twitter

“noteを更新しました。「漢字のひとり言」というタイトルでの文章です。 '09相模女子大学学芸学部日本語日本文学科小論文模範解答例と解説|お湯 @aaiiyudayo #note https://t.co/qiDxpdqrJz”


お湯先生の出題セレクトは良い意味で尖がっており、標準的な小論文形式ではないことが多い。学び始めの人にとっては、ある意味では参考にならないけれど、これを書いているのは12月。そろそろ実践的な作業に入る時期なので、取り組む人はそういう経緯を理解しておいた方が良い





■毛色の変わった設問


さて、この設問もやはりエッジが効いている。出題は学芸学部・日本語日本文学科ということなので、僕はここでちょっと考え込んだ。どのような方針で書くことを求められているのか、と。


小論文を学ぶ人はたいてい、自分が目指す大学なり学部があり、入試科目として小論文が求められているから取り組む、という流れのはずだ。ということは、大学の傾向、学部が求める基本的な姿勢が、小論文の設問にも解答にも反映される。医学部なら医師としての、教育学部なら教師の資質を、小論文をとおして示す。知識であったり姿勢や考え方を文章に込めるわけだ。


そうであるなら、この設問が「学芸学部・日本語日本文学科」からの出題だと考えると、次の可能性が出てくる。いつものように、二項対立からの分析軸である。


・文学としての文章を提示する(作り手)

・文学を読み解く立場として書く(読み手)


前者は自分が小説家にでもなったと仮定し、創作文章を書くということだ。もしかしたら多くの人がこの方針で書こうとするかもしれない。あるいは、相模女子大がそれを望んでいるのかも。僕は相模女子大の学風を知らないし、学芸学部の傾向も調べていない。受験する人は調べるべきだけど、ここではそこまで踏み込まない。もし僕が指導する相手が受験予定なら、もちろん調べまくるし、相手にもそれを望み、しっかり研究した上で解説する。


このブログでは読者がそこまで特化しておらず、一般的な読み手が多いはずなので(いや、そもそも読者がどれだけいらっしゃるのか……?)、一般的な小論文としての視点で解説・解答例を挙げようと思う。個人的には、小説やエッセイ形式の方が楽しく書けるとは思うのだけど、受験生はその方針でやるとハマると思う。小説って、書けそうでいてなかなかうまく書けないものだから。


つまり後者の「読み手」の立場で書いた方が、解答としては成立させやすい。先に書いたように、作り手として書くと失敗する可能性が高い。独り善がりの内容になってしまい、採点者から「……で、結局、どういうこと?」と突っ込まれるから。


だからやっぱり、設問をきちんと分析し、出題者が何を求めているか丁寧に向き合い、その上で持論を展開させていく方針を取ろうと思う。





■タイトルの意味


「漢字のひとり言」から何を読み取るか。


まずは漢字が擬人化されている、と素直に読める。そして恐らくこの点から、多くの人は創作に走り出す。でも、出題者はそう望んでいるのだろうか?


設問には他の条件も提示されている。

・具体的な場面

・具体的なイメージ

この二点を「ふくらませながら」「自由に」書く、と。


もし小説を書くなら、小説として成立していなければならないし、それは受験生には無理のはずだ。小説「らしき」ものはかけても、小説「として成立し得る」ものは書けないから。エッセイもまた然り。「自由に」「ふくらませながら」という甘い誘いに乗ると、たぶん痛い目を見る。くどいようだけど。


では、小論文の出題として何が求められているか。


小論文は自説を社会的な根拠を提示しながら論理的に述べた文章、と定義できる。社会的な根拠とは、一言でいえばアカデミックな立場から論証された説のことだ。そもそも小論文とは、大学で書くレポートの前哨戦みたいなものだ。学問的に何かを論じるのがレポートであり、そのミニマム版が小論文ならば、やはり学問的な論じ方をすべきなのである。もちろん、受験生はまだ学問的な知識は少ない。あったとしても知識をひけらかすことに意味はない。アカデミックなポイントだけをしっかり押さえ、そこを根拠に自説を論理的に書けば、それで立派な小論文の体裁が整う。


では、この設問に対して「社会的(アカデミック)な根拠」をどう結び付けるか?





■設問の掘り下げ


「漢字」について、もう少し深く掘り下げよう。ここにしかヒントはないのだから。


漢字はもともと中国で生まれた。甲骨文字が初の起源だと歴史で習った。また、もともとは象形文字が原型であり、ざっくり言ってしまえば「絵」である。絵で場面やモノを表したものが、次第に定型を取るようになったのが漢字だ。これは国語で習った。どちらも中学レベルの知識。そこから更に発展すると、漢字は指事文字・象形文字・形声文字・会意文字などに分けられる。これは知識なので、知らなければ小論文には使えないけれど。


ということは、一つの漢字には多くのストーリーが含まれていると僕は思う。


たとえば「渉(わたる・ショウ)」という漢字。これは僕の名前で、なぜこの名前にしたのか?と母親に聞いたことがある。曰く「日本を越えて海外にも行けるような人生を歩んでほしい」と願ってつけてくれたそうだ(スマン、母よ、まだ日本にいるよ)。海を(本来は川だが)越えて歩いて渡っていくという意味を表す。ここから、相手と関わる(交渉、渉外)と意味が発展する。自分の名前について書くなら、実感をもって書ける。言葉が上滑りしない。むしろ説得力があるはず。自らの実感を持てない概念は、なかなか言葉にならない。だから自分に引き付けて考えるのは、書く上で大事なヒントになる。


これ、使えそうじゃないか? 僕はそう直観した。漢字の成り立ちを考えると、そこには様々な意味や物語が含まれている。カタチから始まったものが、意味を兼ね備えていき、そして発展していく。この発展は、言語論の「シニフィエ・シニフィアン」というアカデミックな根拠で説明できる。


ソシュールの言語論は、小論文を書く人(あるいは評論文を読む人)にとっては基礎知識レベルだ。難しいけれど、人文科学系に進学するなら必ず知っておくべき。だから、文芸学部で出題されたこの問題を、そこに依拠して書くのは難しい要求ではない。知らない人は、現代文用語集に必ず載っているので調べると良い。これを愉しいと感じた人は、たぶんその後の構造主義に進み、思想哲学が好きになると思う。僕はそこまでモノにしていないけれど。





■アイディア・構成メモ


ここまで考えたことに加え、シニフィエ・シニフィアンの分かりやすい例示を考えてみる。一休さんも使ってみよう。


・漢字はカタチを表すものからスタート

・その後、イミを表すようにもなる(発展)

・自分の名前(「渉」)

・一休さんの逸話(はし=橋・端)

・カタチ(シニフィエ)が同じでも、イミ(シニフィアン)が異なる



■設問条件


2つある。再確認。


1. 「ひとり言」を「漢字」に言わせる

 → 擬人化された文章として書くことになる(表現形式の問題)

字数も少ないし、あまり小難しい表現では伝わらないと判断できるので、易しい表現を心がける。


2. 具体的な場面・具体的なイメージをふくらませる

 → 具体性を備えて書く

事例で字数調整も可能だ。



■字数


この設問、行数だけが提示されている。実際の解答用紙が手に入らなかったので、自分でA4用紙を取り出し、上下に小指一本分くらいは余白があると予想し、実際に自分で文字を書いてみた。字数計算するためだ。するとだいたい20字くらい。ということはだいたい500~600字くらいのボリュームになる。……と思ったら、推定字数が同じように書かれていた。時間ロスだった。


教訓:問題文は見落とすな(自戒)





【主題文】


私(=漢字)は形から始まり意味を携えるまで発展してきた。しかし昨今、あまり大事にされていない。



【解答例】


昔はとても大事にされていたはずだが、最近の私の扱いは当時より軽視されている気がする。

私はもともと絵で表されていた。古くは牛の骨に戦いや牛が描かれ、占いに使われた。あれから数千年が経った。その過程で、絵に対して複数の意味が付与されるようになった。私の一族に「渉」という者がいる。川を渡り、向こう岸まで歩いていくという意味だ。人間はこの者を名前にしたり、あるいは人と関係を持つという時に「渉外」「交渉」と表現し、それらが行き過ぎると「干渉」と呼ぶようになった。

また、中性の日本である僧侶が「はし」という言葉を「橋」ではなく「端」と認識して当時の将軍を煙に巻いた逸話がある。あれは洒落ていた。

絵からのし上がってきた私は、今や多くの意味を携えるようになった。同じ音声で複数の意味を表せるようになった。英語のように多くのアルファベッを使わずとも、たった一つの姿で複数の意味を表すことができるのだ。私はたくさんの働きをしてきた自負がある。人間はそれを使って互いの意思疎通を可能にしてきたはずだ。

しかしどうも、昨今はあまり出番が少ない。実際に人間の手によって書かれることはおろか、機械の上に示されることも少なくなった。もう少し、私のことを大事にしてもらいたいものだが……。


(529字)